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01 肥後象嵌 光助

01 肥後象嵌 光助

サムライたちのCOOLなオシャレを現代へ
「伝統の技を磨き、挑戦をつづける」

肥後象がん/「肥後象嵌 光助」

約400年前の江戸時代初期に、刀の鍔(つば)や鉄砲の銃身の装飾として始まったといわれる肥後象がん。「肥後象嵌 光助(みつすけ)」では、サムライたちのオシャレに新たな魅力を加えた商品を生み出しています。代表の大住裕司さんに聞きました。

大住裕司(おおすみ ゆうじ)さん
「株式会社光助」代表取締役社長、四代目光助。肥後象がん振興会会長。1957年生まれ。大学卒業後、会社員を経て1981年に帰熊。父・正敏さんのもとで技術を学ぶ。1995年代表取締役社長に就任。2021年から肥後象がん振興会会長を務める。

※肥後象がんには、象嵌・象眼の表記があります。

武士のファッションアイテムとして発展

熊本の城下町、新町。路面電車の走る通り沿いに「肥後象嵌 光助」があります。店の奥からコツコツと響く工具の音。肥後象がんは黒い鉄地に細かい刻み目をつけ、金銀を打ち込む「布目象がん」と呼ばれる技法でつくられます。

「肥後象嵌 光助」 外観

― 肥後象がんの魅力は何でしょうか?

鉄地の渋い黒と金の取り合わせが特徴です。藩主の細川家が肥後象がんの鍔が好きで、肥後の武士の間でファッションとして広まりました。刀を差したときに、外から見える鍔の部分に象がんを施し、武士のダンディズムを表しています。鉄地の黒を生かし、光る金をバランスよく抑えています。

―「光助」について教えてください。

江戸時代に細川家に従って熊本へ来たといわれています。もとは鍛冶屋をしながら、煙管(きせる)などに象がんをしていました。明治時代になって「光助」という屋号をつけ、象がんを専門に行うようになりました。有名な鍔師はほとんど廃業しましたが、当家はもともと煙管などもつくっていたので、時代に沿った商品をつくり、今に至ります。

― コラボ商品もたくさんありますね。

今から50年ぐらい前に、プラチナ万年筆さんからの依頼で、雑誌の「プレイボーイ」とコラボした万年筆が最初ですね。万年筆は2016年の伊勢志摩サミットでの贈呈品に選ばれました。旅館のプレートやスポーツ大会のメダルなども手がけ、「2019 女子ハンドボール世界選手権」のメダルにも採用されています。

― 最近はどんなものが人気ですか?

ピアスなどは若い人も買っていかれますよ。キラキラ光るので、目立つんです。15年くらい前から始めたカラー漆の商品は、ネットでよく売れますね。ここ数年はオーダーが増えてきました。普通のものはいらない、人と違うものが欲しい、という方が増えているようです。昔はオーダーだけだったので、本来の形に戻ってきたともいえますね。

運命のいたずら?会社員から象がん師へ

東京で会社員をしていた大住さん。家業を継ぐ決心をしたのは、意外なきっかけでした。

製作風景

― 子どものころから、象がんに興味があったのですか?

子どものころは、カッチンカッチン、トントントントン、こまかい仕事だなあ、よくやるなあと思ってたくらいで、自分がする仕事だとは考えてなかったですね。東京の大学を卒業後、東京で就職したのですが、入社して1年ちょっとのときにスキーで全治10カ月の骨折をして。熊本で入院することになり、退職しました。

― 大けがですね、運命のいたずらでしょうか?

もし骨折しなかったら、熊本に帰っていなかったかもしれないですね。何か仕事はしなきゃいけないし、当時は店に職人が10人以上いて活気もあり、後を継ごうと決めました。

― 仕事を始めてどうでしたか?

やってみないと分からないこともあり、苦労しましたね。修行中のころ友人から頼まれ、キーホルダーをつくりました。文字を象がんしたら、ゆがんでしまって。友人は「よがんどったい(ゆがんでるじゃないか)」と言いながら、大事にしてくれました。それが初めて人に出したものかな。

― 仕上がりを左右する重要な工程は?

最初は布目切りですよね。これを何カ月も練習する、これが基本ですね。どの工程も重要ですが、うちでは特に「すじ打ち」と呼ばれる仕上げの加工を大事にしています。金に陰影や文様を彫っていく作業で、商品の良さが決まります。人形に目をいれるようなものですね。

肥後象がんの主な製造工程

1. 下絵描き鉄地に下絵を描く。
2. 布目切り鉄地にタガネで刻み目をつける。
3. 打ち込み鹿の角で金銀などを打ち込む。
4. 毛彫り金銀の表面を彫り、模様をつける。
5. 錆出し錆出し液を塗り、火にかけて乾かす作業を繰り返す。
6. 錆止めお茶の液で炊く。タンニンの作用で鉄の酸化を防ぐ。
7. 仕上げ金銀の表面を磨き、すじ打ちなどの加工をして完成。

※他にもさまざまな作業があります。

― 金を打ち込むときは、鹿の角を使うんですね?

あまり硬くてもだめで、弾力性がちょうどいいんです。江戸時代から鹿の角が使われてきたようです。

― 道具は何年くらい使っているんですか?

これは、父のじゃなかったかな。金槌なんかは20~30年くらい使いますよね。道具は自分が使いやすいようにするから、人によって大きさも太さも全然違う。職人それぞれ、自分の持ちやすいようにつくっています。

伝統は、守るだけでは続かない

肥後象がん振興会会長も務める大住さん。肥後象がんの未来を、どのように考えているのでしょうか。

大住裕司さん

― 課題を感じていることはありますか?

工芸品はどこも後継者が減っています。それはなぜかというと、売れないから生活ができない、これに尽きるんです。日本中でいろいろな伝統工芸の職人に話を聞きましたが、「伝統だけではメシは食えない」と言われていました。伝統を守りながら新しい技術を取り入れることも必要だと思います。

昔のまま鍔や煙管をつくっていても、需要がありません。幅広く使ってもらえる商品をつくるのが課題でしょうね。そこで、新しい素材やコラボに取り組んできました。時代に合った商品をつくるとともに、本来のオーダーに取り組むのが工芸品の生きる道だと思います。

― 海外の方の反応はいかがですか?

くまモンの象がん体験は、台湾や香港の方に人気がありました。日本に住む中国の方がライブ配信をしたこともありますが、外国の方への販売はこれからですね。スペインのトレド地方では象がん細工が盛んで、「ダマシン」というと海外でも知られています。鳳凰の柄はスペインのものを参考にしました。外国で好まれる花柄や、昔のデザインの復刻も考えています。

― 肥後象がんの未来について、どのように考えていますか?

江戸時代に鍛冶屋をしていたころから200年になりますが、私の子は別の仕事をしているので、今後どうなるかわかりません。店には私も含め5人の職人がいるのですが、全員60歳を超えているので、あと何年できるかなと思っています。 

伝統を代々受け継ぐのは難しくて、多くの工芸品がどこかでなくなってるんですよね。ただ肥後象がん振興会には四十代、五十代の職人もいますので、彼らを育て、商品づくりや告知の方法などを考えていかねばなりません。

― 伝統とは?

伝統というのは守るのも難しいし、これを伝えていくのも難しい。伝統だけ守っていても生活できない、生活できないということは売れないということです。その責任は我々にある。技術を磨きながら、その時代に合った商品をつくっていく。そうしないと伝統というのは、なかなか伝承されるのは難しいと思っています。 

日本中で、なくなっていく工芸品があります。携わってきた者からすると耐え難いことですから、残していくために何かしなければいけない。若い人たちに受け継ぐために、私もいろんなことに挑戦し、少しでも象がんに貢献して道が開けるように、模索を続けています。

※掲載の内容は2021年8月取材時点のものです


肥後象がんというと地味なイメージがあるかもしれませんが、黒地にキラキラと光る金がカッコいい! 取材スタッフも早速ピアスを購入していましたよ。伝統に新しい風を取り入れ続けているから、長い間愛されてきたのだと思いました。

■ 肥後象嵌 光助(みつすけ)
明治7年(1874年)創業。肥後象嵌の伝統を受け継ぎながら新しい技術や素材を取り入れ、アクセサリーや文具、インテリア用品などを制作しています。
所在地:熊本県熊本市中央区新町3丁目2−1
URL : https://mitsusuke.com/

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