百年使える丈夫なうちわ
「日本の文化を、海外にも届けたい」
来民渋うちわ/「栗川商店」
約400年前から、熊本県の鹿本町来民(くたみ)で作られてきた「来民渋うちわ」。「栗川商店」では伝統の製法を守りながら、いまの暮らしに合う商品を提案しています。四代目の栗川亮一さんに聞きました。
栗川亮一
(くりかわ りょういち)さん 「有限会社 栗川商店」四代目。1960年熊本県山鹿市生まれ。大学卒業後、栗川商店に入社。渋うちわの伝統を守りながら、新たな商品を開発している。
竹と紙で作る工芸品
熊本県山鹿市、鹿本町来民(くたみ)の商店街にある「栗川商店」。店の戸を開くと、職人たちが並び、手際よく作業を行っています。

―来民渋うちわの始まりは?
慶長5年(1600年)ごろ、四国丸亀の僧が作り方を伝授したのが始まりと伝えられています。その後、藩主の細川家が奨励し、うちわ作りが盛んになりました。栗川商店が商売を始めたのは、明治22年(1889年)です。来民町の町史には「明治元年に栗川又助が藩主にうちわを献上した」という記録が残っています。
―特徴を教えてください。
「堅牢で風がよく来る」といわれます。一本の竹を割いて作っているので、しなりがあり、風がよく届きます。来民渋うちわは「白渋(しらしぶ)」といって、染料などは加えず柿渋だけを塗って仕上げます。年とともに色が濃くなっていきます。
―長持ちするんですね。
これは昭和4年に作ったもので、まだ現役で使えます。100年近く経っていますね。柿渋を塗る理由は、防虫防腐とコーティング作用。強度を高め、100年経っても使える丈夫なうちわになります。
―うちわ作りで重要な工程は?
みんな重要ですが、難しいのは竹を割く骨師(ほねし)でしょうね。糸が切れたら駄目になるので、竹を糸で編む作業も大事かな。竹林を持っているので、竹を切り出すところから行っています。
―分業制ですか?
そうですね、家内制手工業です。紙貼りと縁取り(へりとり)は女性が担当することが多く、男性は骨師と形切り(なりきり)、両方できると思います。骨師の場合、一人前になるには、だいたい5年ぐらいかかるでしょうね。紙貼りは1年ぐらいでできるようになります。
来民渋うちわ 主な製作工程
1. 骨割り | 小刀で竹を割り、骨を作る。 |
2. 糸編み | 骨を糸で編む。 |
3. 紙貼り | 和紙の両面にのりをつけ、貼る。 |
4. 形切り | うちわの形に合わせ、裁断する。 |
5. 縁取り | うちわの周りに紙を貼り、補強を行う。 |
6. 渋塗り | うちわの両面に柿渋を塗る。 |
※他にもさまざまな作業があります。
本物の魅力を再発見
かつては京都や四国の丸亀とともに、うちわの三大産地といわれた来民。多くの店がありましたが、今では栗川商店だけがその伝統を受け継いでいます。

―昔はたくさんの店が、うちわを作っていたんですね。
昭和初期には来民の町にうちわ屋が15~16軒あったんですよ。戦後、紙が配給制になり、うちわを作れずに竹でハエ叩きを作ったこともありました。扇風機やクーラーの登場で渋うちわが廃れたと思われていますが、一番の衰退の原因はプラスチックが出たことですね。安価で大量生産できるプラスチック製のうちわが主流になり、竹製のうちわが廃れていきました。
―子どものころから店を継ぐ自覚があったのですか?
生まれたときから「四代目」と言われてきました。でも入社したころは、プラスチック製うちわが氾濫していた時期。うちでもプラスチックの骨を仕入れて、紙に印刷して販売していました。渋うちわは長年のお得意様からの注文を細々と作っていたくらい。そんなわけで面白くないなあと思っているときに、八千代座の復興に携わったんです。
―「八千代座」は明治43年(1910年)建設の芝居小屋。復興活動を経て甦りました。
八千代座で歌舞伎役者の坂東玉三郎さんの公演を企画したのですが、玉三郎さんは田舎の公演でも最高級のものを見せ、絶対に手を抜かないんです。その姿に心打たれました。そこで事業を見直し、プラスチック製のうちわから竹製の渋うちわに特化しました。そうすると取材も来るようになり、どんどん広まっていきました。
―そこが転機となったんですね。うちわ作りは入社してから始めたのですか?
子どものときから職人さんが作るのを見ていたから、見よう見まねで作れるようになりました。今は、私は主に書だけ書いています。私がやらないからみんな育つわけですよ(笑)。
うちわは時代を映すもの
栗川商店では、伝統的な図柄だけでなく、さまざまなデザインの商品が作られています。

―時代とともに作るものは変わってきましたか?
昭和初期には安価で大量に作ることを求められましたが、その後「心の時代」といわれ、付加価値を求められるようになりました。店名や商品名を入れて広告媒体として用いられていたうちわを、価値を上げるために記念品・贈答品として打ち出していきました。
30年以上前に考案したのが、赤ちゃんの誕生記念に贈る「命名うちわ」です。渋うちわは丈夫で長持ちすることから、赤ちゃんが丈夫で長生きしますようにという願いを込めた商品です。
―いろいろな種類があるんですね。
形は昔のままですが、デザインは変わっています。うちわは時代を映すようなものですからね。他の伝統工芸品と違うのはそこかな。良いものをつくることはもちろん必要ですが、お客さんが求めていることをどう表現するかというデザインも大事ですね。
―デザインは誰が考えているのですか?
ほとんど私ですが、絵が上手な職人が描いたものも多いです。金魚やアイスキャンデー、かき氷など、上手ですよね。アーバンリサーチ、ビームス、コムサ、中川政七商店、スノーピークなど、コラボにも積極的に取り組んできました。イタリアのデザイナーと福岡で展示会を行い、熊本のイラストレーターのグループとイベントをしたこともあります。
日本のうちわを海外へ
百年長持ちする来民渋うちわ。その未来はどうなっていくのでしょう。

―来民渋うちわの未来について、どのように考えていますか?
俳句や絵を描くなど、うちわに表現できることはいっぱいあるので、未来は明るいと思いますよ。今後は海外に向けて日本の文化を届けたいと思います。大リーグで活躍する大谷翔平選手のうちわを作ってみたいですね。
オーストラリアで展示会をしたことがあるのですが、2000本持って行ったのになかなか売れない。そこで、筆で英語の名前を漢字に直して書いたところ、2000人の方が列をつくりました。海外の人たちが望むのは、オリジナリティとか付加価値なんですね。そこに応えていけば、うちわはまだ売れていくと思います。
―娘婿の恭平さんが5代目を継がれることになりました。
こんな儲からんのに、よく言ってくれたと驚きました。彼の方から言ってくれて、5代目として養子縁組しました。彼が入ってくれて、ネット販売などにも力をいれています。
―次世代へ期待していることはありますか?
それはもう5代目にまかせます。そこで歴史が終わろうが構わないので、好きなようにやってもらえればと思います。私も自分の代でつぶすといかんなと思って、いろんな知恵を出したんですけど、知恵と工夫というのはきついほうが出るわけなんですね。5代目には最初から、なるだけきつい思いをしてほしいなと思ってます。
―かわいい子には旅をさせろ、ということですね。
そうですね、きついほうが知恵と工夫は出ますからね。
―伝統とは
今まで続けてきたというのが伝統でしょうね。作り方は変わっていませんが、表現のしかたは変わっています。世の中が変わっていくので、対応していかなきゃいけない。時代に合ったものを作り、変化をしていくことが続けていく方法ですかね。
作業場を裏手の工場から店の中に移したのは、買う人に作っているところを見てほしい、手間を見てほしいと思ったからです。竹を割いたり、紙を貼ったりしているところを見に来てほしい、そして納得して買っていただきたいと思います。
※掲載の内容は2021年9月取材時点のものです
100年近く前のうちわが今も使えることにビックリ! 取材当日は「NOROSHI」を運営する当社社長の誕生日。お祝いにうちわを購入したところ、栗川さんが筆で社長の名前を書いてくださいました。よい誕生日プレゼントになりました!
■ 栗川商店 明治22年(1889年)創業。来民渋うちわの伝統を受け継ぐ唯一の工房として、一本一本手作り。記念品や贈答品として、名前や文字入れにも対応しています。 所在地:熊本県山鹿市鹿本町来民1648 URL : http://www.uchiwa.jp/
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