五感で味わう季節の和菓子
「何事も10年続ければ、自分のものになる」
和菓子/「菓匠たてやま」
和菓子は、日本の歴史や伝統の中から生まれた食文化。古くから職人の町として栄えた熊本市の川尻で、和菓子店を営む「菓匠たてやま」の立山學さんに聞きました。
立山學
(たてやま まなぶ)さん 「菓匠(かしょう)たてやま」店主。1951年生まれ。高校卒業後、東京での修業を経て、家業を継ぐ。「第24回全国菓子大博覧会 九州in熊本(くまもと菓子博2002)」にて10人で制作した工芸菓子「火の鳥」が農林水産大臣賞を受賞。2005年、熊本市より優秀技能功労賞を授与。「第25回全国菓子大博覧会・兵庫(姫路菓子博2008)」にて8人で制作した「姫路籠」が全菓博工芸文化賞を受賞。熊本県菓子工業組合理事。「開懐世利六菓匠(かわせりろっかしょう)」の一員。
色や形で季節を表現
和菓子の起源は、木の実や果物を間食にしていた古代にまでさかのぼるといわれます。海外との交流や茶の湯などの影響を受け、室町時代から江戸時代初期に現在の和菓子の原型ができ、江戸時代に大きく発展しました。職人の高い技術から生まれる上生菓子は、煉切り(ねりきり)が代表的で、季節の風物を表します。

左から、上段=桜、鶯、菊、中段=菖蒲、みかん、菊、下段=椿、紫陽花、水芭蕉
―和菓子の魅力を教えてください。
和菓子の特徴はシンプルな味で、素材を生かすところです。和菓子と洋菓子それぞれによさがありますが、根本的なところが違います。たとえば、モンブランは栗をベースに砂糖、バター、洋酒、生クリームなどを使って、総合的においしくしていく。栗きんとんは、栗に砂糖だけで、素材の味を壊さないように作ります。
―見た目の美しさも魅力です。
生菓子では煉切りが一番きれい。同じ素材で何にでも変わっていきます。白餡をベースに作る煉切り餡をもんでなめらかにし、食用色素で色をつけます。うちでは白手亡(てぼう)豆に砂糖とつなぎの餅粉を加え、火にかけてねり上げて使います。中に小豆のこしあんを包みます。
―色や形で季節を表現するのですね。
日本の四季折々の風情を表します。季節を先取りし、花が咲く少し前から桜を、紅葉が始まる前からもみじを作りはじめます。面白いのが柿で、夏の終わりから青柿を作り、少しずつ色づけ、最後は干し柿まで作ります。みかんはもう何十年と作っていますが、一番人気ですよ。留学生など海外の方の前で作るとみんな喜びます。
―五感で味わうともいわれますね。
上生菓子には菓銘(かめい)がつけられます。秋ならば「梢の錦」「山路の菊」などの名で、この菓銘を耳で聞いて楽しみます。目で見る、香りを嗅ぐ、舌で味わう、耳で聞く、手で触れる、五感の総合芸術が上生菓子です。
東京でゼロからのスタート
立山さんは18歳で東京へ行き、約10年間にわたり修行。花や鳥などを写実的に表現し、飾りとして用いられる「工芸菓子」にも取り組みました。

―子どものころから家業を継ぐつもりだったのですか?
祖父の代から和菓子職人で、父は独立して店を構えました。私はずっと柔道をしていて、あまり将来について考えていませんでした。高校卒業前に、おやじ(父)が歌を歌いながらお菓子を作っていて、「のんびりしとるなあ、これで飯が食えるなら、よかかもしれんねえ」と思って(笑)。ただやるからには和菓子が有名な所で勉強したいと思いました。
―それで東京で修行されたのですね。
おやじは、私が高校生の時には何一つ教えなかったです。東京でゼロから真っ白でいけと送り出されました。神田神保町と練馬で修行し、3軒目が向島の「青柳正家」。後から聞くと、修行する職人さんが「青柳にはこわくていけない」というほど技術が高く厳しいところ。何にも知らず、雇ってもらえるかも分からないまま、ふとんを持っていきました(笑)。
―修業はいかがでしたか?
技術が高く熱心で厳しくて、お菓子で身を立てるには真剣にやらないかんと、鍛えられました。当時は知識もないので、デパートでお盆やお椀に描かれた萩やもみじ、梅などを見て研究しました。料亭街だったので、芸者さんの着物の柄なども勉強しました。
職人は「盗め」といわれるけれど、技術を盗んで、自分で訓練、訓練、訓練。持ち寄り勉強会というものがあり、いろいろな和菓子を作って何十人と集まります。腕のいい人はその神髄というものは絶対言わないので、話から何かを聞き取って、やってみて失敗しての繰り返しでした。
―工芸菓子を始めたきっかけは?
東京での修業時代、お菓子の品評会があり、おまえも作れと言われました。でも、修行先の旦那さんも先輩たちも、親だって自分を不器用と思っているし、自分自身でも不器用と思っている。さて何を出そうかと考えて、果物を作ることにしました。りんごを横に置き、3~4時間かけて本物と寸分たがわぬような色を出す。りんご、バナナ、桃、柿を徹夜で作りました。先輩たちが起きてきて、「これは本当におまえが作ったのか」とびっくりされました。「おまえ、いい手(技術)持っとるねえ」と言われて、そこから工芸菓子をやってみようと思いました。
一生をかけて作り上げる菓子
東京から熊本へ戻り、家業を継いだ立山さん。地元で新たな挑戦も始めます。

―熊本へ戻ってからはいかがでしたか?
熊本に戻り、この店は大通りに面してもいないし、なんとか印象づけたいと思って、工芸菓子をやろうと思いました。最初に肥後椿を作ったところ、中学のときの教頭先生が見に来られました。その先生が趣味で肥後椿を持っていて、一度見に来いといわれて行ってみると、本物は全然違いました。
そのころよく遊びに来ていたおやじの友だちに「もう作らないのか」と聞かれ、「おれは才能がないからやめようと思う」と答えると、「なんでも10年というぞ。10年やって、それでもうまくいかなかったらその時判断すればいい、やるだけやらないと、どんな才能があるかわからんぞ」と言われました。それ以来、観察を大事に工芸菓子を作り続けています。
―店を代表するお菓子を教えてください
和菓子の世界には「一生一品」という言葉があり、一生をかけて一つの菓子を完成させていきます。父は「松露(しょうろ)」、私は「花おぐら」です。「花おぐら」は大納言小豆を寒天で固めたもので、完成までに8日間かかります。40年ほど前に東京で食べたものを参考に、熊本で作り上げました。できたばかりのお菓子はまだ赤ちゃんで、そのお菓子を大人になるまで育てていかないといけない。少しずつ少しずつ何年もかけて変えていくので、一生かかります。
良いものを目指すことが成長につながる
立山さんは、川尻の和菓子店6店で結成した「開懐世利六菓匠(かわせりろっかしょう)」の一員として、イベントなどで活動しています。「開懐世利」とは、川尻の古名です。

―「開懐世利六菓匠」が始まったきっかけは?
元は菓子組合の川尻支部で、約30年前に店の世代が替わりはじめたころ、一緒に何かやれないかという話になりました。1軒1軒でお客さんの取り合いをするよりも、まとめて大きくして、商圏を広げたほうがいい。六菓匠には良い人材が揃っているし、楽しいし、やってきてよかったですね。
―技術を伝える取り組みもされていますか?
高校や調理師学校で講義をしています。また、熊本で2002年に開催された菓子博の後に、職人のレベルアップを目指して勉強会を始めました。「肥後菓子道場」という名で、年4回行っています。
―伝統について考えていることを教えてください。
和菓子の原型ができて400年~500年経ちますが、日本にある材料だけで作られてきました。基本的な材料の豆も砂糖も植物性です。しかし現在は、バターや生クリームなど洋の材料も使います。新しいことをやっていくためには、そういうことも必要ですね。伝統、伝統とあまりがんじがらめになってしまうと、伸びません。ただし、植物性の材料を主な原料に使い、素材の味を生かす和菓子の精神は、ずっと守っていくつもりです。
―和菓子の今後についてどのように考えていますか?
みんなで勉強して、一つのお菓子をもっとおいしくするにはどうすればいいか、きれいに見せるにはどうすればいいかということをずっと考えていかなくちゃいけない。それで少しずつ技術も伸び、魅力的なお菓子になっていくと思います。
―次の世代への思いを聞かせてください。
息子は10年ほど和菓子職人をしていましたが、今は和菓子から離れています。最近になって、孫が作りたいと言っています。それには勉強と努力、本人の覚悟が必要です。職人はその人次第です。自分でもっといいものを、もっときれいなものを作りたいと思っていれば、絶対伸びます。でも、たとえばおやじがするのをまねていればそれでいいと思ったらそこで成長はストップですね。和菓子というのはずっと進歩していかなければいけないと思っています。
※掲載の内容は2021年11月取材時点のものです
立山さんの手の中から、次々に生み出されていく桜やうぐいす、菖蒲や柿。言葉の端々に、長い年月をかけて技術を磨いてきた職人の気概を感じました。熊本には抽象的な表現の和菓子があまりないそうですが、立山さんが手がける抽象的な和菓子も見てみたいと思いました。
■ 菓匠たてやま 熊本市の川尻で三代続く和菓子店。季節の上生菓子をはじめ、名物の「花おぐら」やどら焼きなど、さまざまな和菓子が並びます。店内には、立山さんが手がけた工芸菓子が飾られています。 所在地:熊本県熊本市南区川尻4-1-43
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