ユーモラスなからくり人形
「日本の文化を伝えるため、作り続ける」
おばけの金太/「厚賀人形店」
「おばけの金太」は、江戸時代に生まれたからくり人形。黒い鳥帽子(えぼし)に赤い顔、紐を引くと舌を出し、目玉が引っくり返るユーモラスな動きが特徴です。「厚賀人形店」の厚賀新八郎さんに聞きました。
厚賀新八郎
(あつが しんはちろう)さん 1943年熊本市生まれ。1963年、父・新氏のもとで人形師となる。京都から熊本に移り住んだ西陣屋新左衛門以来、約250年続く人形師の10代目。5代目の彦七が考案した「おばけの金太」を作り続けている。
江戸時代に生まれた郷土玩具
江戸時代の嘉永年間(1848〜1854)に、厚賀家五代目、人形師の西陣屋彦七が作り出したからくり人形が「おばけの金太」の原型といわれています。

―「おばけの金太」はどのようにして生まれたのですか?
加藤清正公が約400年前に熊本城を造る時に、金太というひょうきんな足軽がいて、「おどけの金太」と呼ばれていたそうです。その人をモデルに、当家五代目の彦七が考案したといわれています。
大きな赤い顔で、紐を引くと、目玉がひっくり返ってべろを出します。見た人が「わー、おばけだ」と言って驚き、「おどけの金太」が「おばけの金太」と呼ばれるようになったという話です。
―どんな特徴がありますか?
竹のばねでからくりを作ります。真竹の皮目の方へ向かって薄く削り、0.3mmくらいまで削りこんでいく時もあります。竹に紐をつけ、目玉と舌の部材にも紐を巻きつけると、目玉と舌が同時に動きます。ちょうどよい硬さのばねを作るのが難しいですね。
赤い色には魔除けの意味があるといわれます。チベットでは魔除けのために朱を塗ると教えてもらったのですが、日本でもお宮やお寺、鳥居などに朱色を塗ります。魔除けや病除けを願ったもので、男の子の初節句に飾る人形や旗に描かれる金太郎は、赤い顔をしていますよね。「おばけの金太」も金太郎玩具の一種として、初節句のお祝いに贈られることもありました。
―作る時のポイントは?
地塗りが大事です。人形ですから、顔にでこぼこがないように、つるつるに仕上げます。生地に胡粉(ごふん)を何回も何回も塗り重ねます。胡粉は貝殻の粉からできていて、にかわを混ぜて使います。
おばけの金太の主な製作工程
1. 型作り | 厚紙を型に入れ、顔の形を作る。目と口の部分に穴をあける。 |
2. 地塗り | 紙の上に胡粉を塗る。何度か塗り重ね、つるつるした質感に仕上げる。 |
3. 上塗り | 赤色の塗料を二度ほど塗り、きれいに塗り上げる。 |
4. からくり付け | 薄く削った竹のばねに紐を巻き付け、目と口を動かすためのからくりをつける。 |
5. 台つけ | 台と鳥帽子をつける。 |
6. 仕上げ |
※他にもさまざまな作り方や作業工程があります。
250年を超える人形作り
厚賀家は250年以上続く人形師。節句人形や祭りの道具などを作ってきました。

―厚賀家について教えてください。
初代の新左衛門が京都から熊本に移り住み、「西陣屋」という屋号をつけました。代々、熊本の城下町・新町で人形作りを行っていましたが、明治10年(1877年)の西南戦争の時に新町が戦火に巻き込まれ、立ち退きをしました。その際、生活用品を載せた荷車に、金太の顔の原型が一つ入っていたといいます。私が子どものころには、その型が父の仕事場に置いてありました。
―どんなものを作っていたのですか?
人形屋のメインの仕事は節句の人形です。他にはお祭りの道具や消防のまとい、生き人形と呼ばれる精巧な等身大の人形などを作っていました。父と祖父の時代には県下全部のまといを作っていました。私も以前は新町に住んでいたので、新町の獅子頭を手がけました。
熊本にも昔は何軒か人形を作る店がありましたが、流通が盛んになるに連れ、多くが問屋になりました。当家も親族で話し合いましたが、コツコツ作り続けていれば倒産はしないだろうと考えたのと、獅子頭や祭りの道具などを作る者も必要だと思い、職人の道を選びました。今は「おばけの金太」を中心に、正月の干支の人形なども作っています。
―いずれは人形師になるつもりでしたか?
子どものころから「長男だから後を継がなければ」と、周囲に言われていたからですね。そういう時代でした。高校卒業後、父を手伝うつもりでしたが、当時はあまり人形作りの仕事がなく、就職して会社員になりました。
2年ほどして父の仕事量が増え、金太を作るのをやめるという話が出ました。元々金太は遊び心から作られたもので、主力商品ではありませんでした。でも私は金太をやめるのはもったいないと思い、いずれ店を継ぐのならば自分がやろうと考え、会社を辞めました。その後、民芸品や国内旅行ブームがあり、メディアなどでも取り上げられ、金太作りをやめるにやめられなくなりました。こんなはずじゃなかったのですが(笑)。
―どのように技術を身につけましたか?
技術を一つひとつ教えてもらうのではなく、父の姿を見ながら自分で覚えました。子どものころから手伝いをして道具を使いこなしていたので、上達するのは早かったです。昔のままの方法では数を作れないので、作り方を変えるなど、工夫を重ねました。
先祖から受け継ぐ技術
厚賀さんの息子が十一代目を継ぐことになり、技術を学んでいます。

―250年を超える歴史をどう感じていますか?
先祖が代々作り続けてきたもので、これを疎かにはできません。技術を継承してこられた人たちがいて、今の我々があります。この仕事を継いでいく上で、先祖に感謝をしないといけないと思っています。
―息子の新太郎さんが11代目になる予定です。
私が10代目で区切りがいいし、息子が継がなくてもいいかなとも思っていました。工芸品を土産として買う人が減り、これから先どうなるか分かりません。でも本人が継ぐというので、私が生きているうちに技術だけ伝えて、仕事があれば続ければいいし、なければ別の仕事をすればいいと思い、技術だけは絶やさないようにしたいと思うようになりました。
―息子さんから後を継ぐと話を聞いたときはどうでしたか?
うーん、うれしかったのかな(笑)。バトンタッチすれば責任が果たせるので、ほっとしますね。私で終わるというのは相当な覚悟をしないといかんからですね、終わらんでよかった。覚悟をしていた矢先でした。
―次の世代に期待したいことは?
これからの時代、どう変化していくか予測がつきません。「おばけの金太」の技術をベースに、その時代にあった人形というのを考案し、求められる注文があればそれを作っていくといい。技術を生かしながらやっていくことができればよいと思っています。
伝統を担い、後世に伝える
伝統の技を後世に伝えるため、昔ながらの材料を用いて作り続けています。

―伝統についてどのように考えていますか?
伝統というのは非常に幅広い、そして奥深いとらえかたがされるものだと思います。我々の祖先が生活の中で考え出したり、便利なように作り出したり、飾って楽しんだり。生活の中にある自然のものを使って、生活道具やおもちゃ、着物や家など、いろいろなものを作ってきました。
日本には独特の文化があり、衣食住のすべてを祖先が苦労して作り上げてきました。そういったものを後世の人たちに伝えていくために、私はこの道を選び、伝統工芸の一部を担ってきたつもりです。いまだに江戸時代に作ったものが皆さんに喜ばれ、生活の中で受け入れてもらえるというのは、非常にありがたくうれしく思います。
―時代の変化をどのように感じていますか?
私たちの仕事は、木や和紙や竹、そういった自然の素材を材料として作ります。私が若いころに急に化学製品が広まり、プラスチックの時代に変わりました。「おばけの金太」もプラスチックで大量生産したらどうかと言われたのですが、私はそうはしませんでした。ところが今になって、今度は化学製品をやめようという風潮になっていますよね。そうなると我が家がやってきたことが生きる道が、少しはあるかなという気がしております。
―未来に向けて
作るものは変化しながら、技術と材料は変わらない。これが伝統工芸の続いていく道ではないかと思っています。息子の時代、あるいは孫の時代になると、また昔のものがよかったと変わっていくかもしれません。そうなれば、まだまだ続けていく、あるいは新しい製品を作っていくことができます。そういう時代がくればよいなと思っています。
※掲載の内容は2021年12月取材時点のものです
「おばけの金太」は人形師の遊び心から生まれたものだそうです。西南戦争の戦火の中から型が持ち出され、今も作り続けられていることに不思議なものを感じます。それにしても、紐を引っ張った時の変化は、かなりのインパクトがあり驚きました。




■ 厚賀人形店 熊本県熊本市 ※熊本県伝統工芸館などで販売 江戸時代から250年以上続く人形師。五代目彦七が考案したからくり人形「おばけの金太」は熊本県指定伝統的工芸品。熊本を代表する郷土玩具として親しまれている。
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